ジョン・セント・レジャー卿(John St. Leger、1596年没)はイングランドのデヴォン州モンクレイ出身で、地元と中央政府で働いたイギリスの国会議員である。
起源
彼はジョージ・セント・レジャー卿(Sir George St. Leger)と、バッケナム出身のエドムンド・キーヴェット卿(Sir Edmund Knyvett)と妻のエレノア・ティレル(Eleanor Tyrrell)の娘のアン・キーヴェット(Anne Knyvett)の息子であった。父方の祖父母はジェームス・セント・レジャー卿(Sir James St. Leger)と、第7代オーモンド伯爵のトーマス・バトラーとアン王妃の大叔母の娘であり、女相続人のアン・バトラー公爵夫人(Lady Anne Butler)であった。彼の大叔父の一人がエドワード4世とリチャード3世の姉のエクスター公爵夫人アン・プランタジネットの夫であるトーマス・セント・レジャーであった。
公的職業
1544年にナイト爵叙勲の栄誉を受け、1560年にデヴォン州高等保安官を務めた彼は1555年から1558年までデヴォン州ダートマス議会選挙区、1559年から1563年までデヴォン州議会選挙区、1563年から1571年までサセックスのアランデル議会選挙区、1571年から1583年まで再度デヴォン議会選挙区、および1584年から1585年までコーンウォール州トレゴニー議会選挙区選出の庶民院議員であった。
結婚生活と子供たち
彼は第5代バーガベニー男爵のジョージ・ネヴィルと3番目の妻のレディ・メアリー・スタッフォード(Lady Mary Stafford)の娘であるキャサリン・ネヴィル(Catherine Nevill)、および第3代バッキンガム公爵のエドワード・スタッフォードと妻のレディ・エレノア・パーシーの末娘であるレディ・メアリー・スタッフォードと結婚した。彼らの子供たちは以下の通りである。
- ジョン・セント・レジャー(John St Leger;父親と同名):アイルランドの軍人だったといわれる。未婚、および困窮のまま死亡。
- メアリー・セント・レジャー(Mary St Leger):ガレオン船「リヴェンジ号」の著名な船長で、コーンウォール州キルハンプトンのストウハウスに住むリチャード・グレンヴィル卿と結婚。政治家のバーナード・グレンヴィル卿の母となった。
- フランシス・セント・レジャー(Frances St Leger):デヴォン州イースト・ワーリントンにあるアフェトン城に住むジョン・スタックリー(John Stucley)と結婚。荘園領主のルイス・スタックリー卿の母となった。
- マーガレット・セント・レジャー(Margaret St Leger):デヴォン州ブラントンの小教区であるアッシュ出身のリチャード・ベリュー(Richard Bellew)と結婚。2人の記念碑がブラントン小教区教会(Brauton parish church)にある。
- オイラリア・セント・レジャー(Eulalia St Leger):ラマートンにあるコラカム・マナー・ハウスに住むアイルランド担当首席秘書官であったエドムンド・トレメインと結婚、およびデヴォン州テットコット出身で、義父からアネリーを買収したトリストラム・アスコット(Tristram Arscott)と再婚。
ジョン・セント・レジャーの死
多くの土地を蓄積させてきたのをよそに、彼は借金で圧迫され、多くの私有地を手放した。彼は「"a poor man"(1人の貧しい男)」のまま亡くなり、1596年10月8日にモンクレイにある小教区教会に埋葬された。未婚のまま亡くなった彼の息子であるジョンの死を以って、アネリーのセント・レジャー家の家系は断絶した。
参考文献
- Virgoe, Roger, Biography of St Leger, Sir John (by 1516-93/96), of Annery, published in The History of Parliament: the House of Commons 1509-1558, ed. S.T. Bindoff, 1982
- Fuidge, N.M., Biography of St Leger (Sellenger), Sir John (by 1516-93/96), of Annery, published in The History of Parliament: the House of Commons 1558-1603, ed. P.W. Hasler, 1981
- W. D. Pink, 'The Parliamentary History of Tregony', The Western Antiquary, Volume VI, Part V (1886), 117–121
脚注




