土御門 顕親(つちみかど あきちか)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。内大臣・土御門定通の二男。官位は従二位・権中納言。

経歴

承久2年(1222年)正二位権大納言・土御門定通と六波羅探題北条泰時の妹竹殿の子として誕生。前年に発生した承久の乱の影響で父定通は失権しており、後ろ盾のない苦しい立場にあった。承久4年(1224年)叙任する。この時の名は輔通。北条泰時は父義時急死のため鎌倉へ戻り執権となる。泰時の嫡男北条時氏が六波羅探題北方となる。

嘉禄3年(1227年)侍従に任じられ、名を顕通と改める。父は変わらず苦しい立場だったが、この後、兄・顕定と共に昇進を重ねていく。

安貞3年(1229年)従五位上に叙任。寛喜2年(1230年)、六波羅探題北方北条時氏が死去し、母竹殿の同母兄北条重時が後任に就く。寛喜3年(1231年)正五位下叙任、備前介に任官。貞永元年(1232年)左少将、長門介を兼ねる。この年、北条泰時が御成敗式目を制定する。貞永2年(1233年)従四位下叙任。嘉禎元年(1235年)従四位上叙任。嘉禎2年(1236年)左中将に遷任。同年、父定通が内大臣に就く。嘉禎3年(1237年)正四位下叙任、翌年従三位叙任。暦仁2年(1239年)正三位、仁治2年(1241年)参議となり従二位叙任。

仁治3年(1242年)に四条天皇が急死すると、父定通は執権北条泰時と諮り後嵯峨天皇を擁立する。同年中納言に就く。また、執権・泰時が死去し、孫の北条経時が執権に就く。

寛元4年(1246年)後嵯峨天皇が後深草天皇に譲位し、院政を開始する。また、執権・経時が死去し、弟の北条時頼が執権に就く。

宝治元年6月2日(1247年)出家。『弁内侍日記』では「今の世にはこれ程なる人も有りがたし」と評されている。

脚注

注釈

出典

参考資料

  • 群書類従『弁内侍日記』
  • 宮崎康充 編集『検非違使補任別巻』八木書店

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世親 Vasubandhu JapaneseClass.jp

土御門家墓所 名田庄にある土御門神道本庁

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